CLUB

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戦火の中に始まったヨット部の歴史

   1941年(昭和16年)6月15日、横浜で開催された「第8回関東学生ヨット選手権」に明治大学が初出場(二部4位)。これ以前から活動していた形跡はあるものの、確かな記録が残っていないため、明治大学体育会ヨット部はこの日を以て発足とする。この年の12月8日、日本海軍機がハワイの真珠湾を攻撃し太平洋戦争が勃発。まさに戦火の中に明大ヨット部の歴史は始まった。


 戦時色濃厚な当時の世相を反映し、その頃のヨット部の正式名称は「海洋部国防訓練部帆走班」。クラブが所有していたのはA級ディンギー7艇とキールボートのオリンピック種目であるスター級1艇。部長は武田孟教授(後の明治大学学長)で、初代主将は森島通がつとめた。
その後、1943年(昭和18年)の第10回関東インカレでは二部ながら初優勝を飾るなど、順調な滑り出しを見せた明治大学ヨット部だったが、戦局の悪化にともない同じ年の10月に学徒出陣がはじまり、インカレなど学生ヨットの活動は完全に休止。本学ヨット部も主将を始め、多くの部員が学徒出征で戦地へとかり出され、創部3年目にして早くも活動の休止を余儀なくされた。まさに混乱の草創期となった。

 

戦後の混乱期に体育会加盟

 1945年(昭和20年)の敗戦により、各大学のヨット及び艇庫等が進駐軍に接収されてしまったため、戦後しばらく明治大学ヨット部は完全な休部状態に置かれた。そんなヨット部に再び息を吹き込んだのが、1947年(昭和22年)に商学部に入学した前田昭夫(公認会計士・故人)だった。前田は、中学時代の先輩で日大ヨット部に在籍していた川井郁夫氏の勧めで明大ヨット部の復興を決意し、戦前の資料集めに奔走し、1948年(昭和23年)の秋に学生ヨット連盟と明治大学体育会に正式加盟が認められ、1949年(昭和24年)4月より正式に明治大学体育会ヨット部として掲示板にて部員の公募が行われた。


 この公募になんと150名を超える応募があったというから、終戦から間もなく物資も乏しい時節にありながら、当時の学生たちの意気軒昂ぶりには今さらながら驚かされる。戦後初の主将は前田が務め、部長には再び武田孟教授が、そして初代監督には、当時大学のすぐそばにあった河出書房に勤務していた伊藤徳男(1946年卒)がその任に就き、明大ヨット部は体育会のクラブとしての体裁を整えていった。

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我等に燃ゆる希望あり

明治大学体育会ヨット部の目標は、全日本インカレ(全日本学生ヨット選手権)における総合優勝にあります。残念ながら、いまのところ最高位は総合2位(2回)とクラス優勝(3回)にとどまり、全日本総合優勝という目標は達成できておりません。 一方クラブの存在意義、つまり私たちのクラブの目的は、最高学府に学を修める者に相応しい教養と常識を兼ね備えた心身ともに優秀な人材の育成にあります。この最終的な目的は、先に掲げた全日本インカレ総合優勝という「目標」に向かって、知力と体力を尽くして刻苦研鑽するプロセスの中で達成されるべきものであると、私たちは考えます。  

 

人智の及ばない海という自然環境の下でおこなわれるセーリングというスポーツは、文明社会で脆弱になった現代人の「個」を鍛えてくれます。日本各地から集った青年たちが一つ屋根の下で寝食を共にする合宿生活は、戦後の日本社会から失われつつある「和」を育んでくれます。そして「全日本インカレ総合優勝」という明確な目標を共有する仲間と過ごす4年間が、これからの人生にとってかけがえのない財産となることを確信します。  

以上の認識を踏まえた上で私たちは、先の「目標」を達成するための手段を選びます。「目的」をスポイルするような手段、たとえば大学のカリキュラムを無視した合宿日程の強行や、競技力のみに頼ったリクルーティングなどをよしとしません。「目標」は、その上位概念である「目的」を達成するための手段に過ぎないということを念頭に置いた上で、全日本インカレ総合優勝という大目標を達成するために、大学ヨット部が採るべき最良の道筋を日々模索しています。  

 

本学校歌の一節に「我等に燃ゆる希望あり」という文言があります。私たちにとって、全日本インカレ総合優勝という目標は、まさに「燃ゆる希望」そのものです。私たちはこの言葉を胸に、前掲の理念を共有する仲間とともに、全日本インカレ総合優勝という目標に向かって努力を惜しみません。

 

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明治大学体育会ヨット部で4年間を過ごした部員の、卒業後の主な就職先を業種別にまとめました。

ヨット部OBは、社会に出てからも明治魂を胸に、それぞれの分野で活躍しています。


銀行

日本銀行 みずほ銀行 三井住友銀行 三菱東京UFJ銀行 りそな銀行 
京葉銀行 スルガ銀行 第三銀行 東京都民銀行 肥後銀行 
百十四銀行 福岡銀行 北陸銀行 横浜銀行 シティバンク銀行

 

その他金融

アプラス オリエントコーポレーション ジェーシービー 大和証券 
東銀リース 日興コーディアル証券

保険

あいおい損害保険 損害保険ジャパン日本興亜 東京海上日動火災保険 

三井住友海上保険 三井生命保険 アリコジャパン ソニー生命保険 
日本生命保険 明治安田生命保険

 

建設・建機

鹿島建設 熊谷組 新菱冷熱 大成建設 竹中工務店 東亜建設工業 
東京セキスイハイム 西松建設 日本国土開発 日立建機 フジタ 
三菱長崎機工 第一設計

通信・情報

NTTコミュニケーションズ NTTドコモ JR東日本情報システム CSK 
ソフトバンクBB 

 

メディア

日本テレビ放送網 日本放送協会 中日新聞社 読売新聞社 電通 
すばる舎

 

インフラ

神奈川中央交通 長崎自動車 西日本鉄道 NEXCO中日本

化学・薬品

カネボウ化粧品 クラシエ薬品 新日鉄住金化学 常盤薬品工業 
ファイザー 武州製薬 万有製薬 三菱化学 ライオン 東レ

 

食品

伊藤ハム 協和発酵キリン キリンビール 国分 サントリー アサヒ飲料
日本アクセス 日本コカ・コーラ ミツカン 森永乳業 雪印乳業 
食品環境検査協会

販売・サービス・商社

 

伊勢丹 伊藤忠商事 ウォーターフォード・ウェッジウッド・ジャパン 
オンワード樫山 キャノン販売 JTB シェイプアップハウス そごう 
ニトリ 任天堂 フィッツコーポレーション 三越 ヤナセ ワールド 
明治大学(職員)

電機

沖電気工業 日本電気 日本ビクター パナソニック 日立製作所 
三菱電機

 

その他電機

アイシンAI いすゞ自動車 大倉工業 王子ネピア 
トヨタ自動車東日本 共同印刷 国際石油開発帝石 コニカミノルタ 
JFEスチール 大同特殊鋼 日本精工 日本製紙 
パイロットコーポレーション ヤマハ 旭ファイバーグラス

 

進学

明治大学人工知能研究室 明治大学大学院理工学研究科建築学専攻

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施設概要

 

敷地面積
276.84㎡
建築面積
164.99㎡
延床面積
498.83㎡
構造
鉄筋コンクリート造 
地上3階
主要諸室
艇庫、居室1・2・3・4 資料室 器具室 食堂 浴室 指導者室
設計期間
2012年4~10月
工事期間
2012年11月~2013年7月

 

1F

 

 

2F

 

 

3F

 

 

その他

 

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屋上

 
相模湾を一望できる屋上
春はBBQ夏は花火等様々なイベントを楽しむことが出来ます
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銘板

 
「明治大学体育会ヨット部 合宿所」の文字が刻まれた銘板は、本学ヨット部OBで唐津焼の陶芸家として活躍されている中里太亀さん(1988年卒)が、自らの窯である「隆太釜」の登り窯で焼き上げた唐津焼の大作です。書体は、本学ヨット部顧問の田口喜三郎さん(1959年卒)の書によるものです。

 田口さんは、1965~1974年まで監督を務め、1975~1996年まで総監督を務めた、本学ヨット部の中興の祖ともいうべき存在です。
 中里さんは、唐津東高校ヨット部出身で本学ヨット部第四十三代主将を務め、1987年には全日本インカレで470級優勝、総合準優勝の戦績を残された名キャプテンです。